昭和40年10月13日 13日会
記念祭のご準備も、着々として進められており、又ご造営の方も昨日一昨、本館の方の棟上も済み、鉄骨の組み立ても、殆ど九分通りは済んでおるということでございます。ただ今、現場から総代さんの高芝さんが帰って見えられましたから、「先生見事ですばい。もうあらだけで良かろうごたる、もうあれだけで良か」と言います。まぁいくら見事に出来ておっても鉄骨だけじゃ人が住む事も出来なければ、入る事も出来ませんのですけれども、私は高芝さんのただ、それだけの事がです、何か知らんけれども私の心の中にピシッとこう、刺さるようなですね感じがするんですよ。
と言うのは、成程神様が記念祭のことに付いてでもそうですけれども、ご造営のことに付いてはなおさら特にそうなんですけれども、何かこう先頭に立ってどんどん、どんどんこのお進みになり、お進みになっておられると言う事です。にも関わらず私共の信心は一向進まずに、神様との間隔があまりにもこう、出来て来たというかです、私共の信心が出来て、そしてこう神様も、お進めになるのならば、お進め良かろうと思うのだけれど、ね、こちらの思う以上に神様が先に立って急いでおられるという感じ。
ところが私共の信心は一向それに共のうて、ね、言わばそれに共のうてあの、急いでいないと言う事。進んでいないと言う事。本当に神様がもう見事に出来た、ね、ご住宅の方も今日はほとんど瓦がふさるらしゅうございます。ね、本館の方は今言う様に九分通りの、組み立ても済み、今日とび職の方達は帰られると言う事で御座います。もう本当にここままで良かというごと見事にもう、いわば、お広前の威容というものが、こう現れて来た。本当にこのままでよかろうごとある。
けれどもこのままで良かったらどういう事になるだろう。神様の願いも叶わなければ、私共の又願いも叶わない。ね、けれども神様が、もうこのくらいでいっちょ止めとこうか、と言うて腰を下ろしなさったらどういう事になるだろう。神様の願い悲願。神様の切なるその願いというのがこの13日という、13日の会に現れて、その神様の思いに沿い奉ろうとする同志の方達が、年々その内容も充実して。
この度はその方達がほとんど中心になって御造営のことが思い立たれ、ここに神様の願いがです、その一介が成就しようとしておる、ならその事だけがです、御造営のことだけが神様の願いか。記念祭が、見事に出来さえすればもう神の願いが叶うたと言うて喜ばれるか。私はそうでもある。けどもそれは何と言うてもまず、まず私共自身がです氏子自体がですおかげを受けまして、本当におかげを頂いて有り難しと言う一念が。
お礼の15年の記念のお祭りになり、私共のおかげを頂いておると言う事がです、有り難しという真心がです、真によって現されるのが御造営でなからなければならないと思う。してみると、神様の願いというのは、み教えにも下さるように、どうぞ信心しておかげを受けてくれよ、と言うことなのである。信心しておかげを受けてくれよ、と。ね、まず私共がおかげを頂かなければならない。
まず体の丈夫を願えよ、体が元なり。信心は家庭の不和のなきが元なり、と言うようにです、私共の体の丈夫がまず、言わば確固なものになり、家庭におきましてはです、一家が勢を揃えた信心が出来られてです、ね、円満な生活が、信心生活が成されていくということが、まず基礎にならなければならない。土台にならなければ。にも関わらず、私は昨日、夜の御祈念を奉仕させてもらおうと思うて、2、3人の方のお取次ぎをさせてもろうて、丁度、久留米の佐田さん夫婦、お取次ぎさせてもろうてから。
久富さんの奥さんの、邦子さんをお取次ぎさせて頂こうと言う時には、お広前がこうやってもうておるようにある。ああ可笑しいなぁと。はあこれが目がまうて言うとだな、と思うた。なかなかそのお取次ぎが容易に出来なかった。それでしばらくじっとし、平静にしとりましたら、この目のまうということは、無くなってから、もうとにかく体が丁度揺れておる船に乗っておるように、動くような感じがする。
立ったらそのままバタッと倒れそうに感じがするから、とにかくすぐ2階にも上がれませんから、そこへ床をとらせましてから休ませてもらった。ゴソゴソ這うて行って、とうとう御祈念も長男が奉仕させてもろうて、私はもうそのまま今朝まで休ませて頂いた。今朝おかげを頂いてスキットし、大体しておりましたけれど、段々、11時、12時も、ここ奉仕の時間、御飯の頃には少し気分が悪かった。
長男も、今朝から風邪とまた例の中耳炎が拗れたようで熱発して、大変まぁ、夕べ苦しんだらしい。ご大祭も近づかせて頂いておりますのに、今日からご大祭まで断食のおかげを頂きたいというお取次ぎを願うておった。ですから断食のおかげを頂かなければならんから、私は今日の昼でも降りて来ていないのかと、朝午前中出て来ておったけれど、かと思うたらやっぱり痛んでるらしい。意欲はしておる。本当に断食でもさせて頂こうと。そりゃ1日の断食だってです、本当言うたら本気にならなきゃ出来ません。
けどもほんなら3日なら3日の断食でもしようと。と言うことは、やはり一生懸命のものがなからなければ出来ん、その一生懸命のものがあるにも関わらずです、体の丈夫を願え、体が元とさえ仰るその元を、なら私共親子の者がです、許されていないという事。ここに私が思いを至らせて頂きます時に、これはまぁだそのことよりもこの事よりもまず、まず自分自身の健康の事が願わなければならない。
今朝から頂きます御理解の中にもです、お礼を、又はお詫びをと、願いをと。ね、御礼をさせて頂くと、本当に有り難いと思うておりますと。神恩報謝の生活出来ておりますというけれどもです、その神恩報謝の生活を神様が見届けて下さる、聞き届けて下さるということはです、本当に有り難いと思うておりますという、その思いが形に現わされて、去年よりも今年、今年よりも来年。
いわゆる、10年前よりも10年後の今日にです、ね、それだけのことが、思いが形に現されることの出来れるおかげを頂いて初めて神様がお礼として聞き届けて下さるというような御理解だった。お詫びにおいても同じこと。ね、ただすいません、とこう謙虚に…。私が今朝ご心願に頂きますのにね、あのラムネですね、ラムネのせんを下に、とこう突き落とす所を頂いた。ラムネの玉を下へ突き落とす。ね、
神様相済みませんと、こりゃ神様の前だけじゃないけども、人が前に立ってどうも済みませんでしたと言う時にです、上を向け頭を持っていって済みませんという者はおりゃしません。済みませんといや、本当に平信低頭して済みませんである。その下へ持って突き落として行くような、言わば自分という者をギリギリ見極めさせてもろうて。自分という者を本当に分からせて頂いて、相済まん私であるということからです、例えば一つのこの難儀というか、ね、困ったことと言うか願いが成就しないという事か。
そういうようなこと相済みませんと、ね、お詫びし抜かせて頂くその低姿勢に対してです、神様が向き直しえて、こちらの方を向いて下さるんだ。こりゃ前は向いて下さっただけだ。そこでお詫びが叶う叶わないと言うのはです、ね、本当に済みませんでしたという自分を見極めさせてもろうて、改まって行くという事によって神様の言わばお詫びというのは叶うていくものだと言うような御理解を頂いた。
願いというのは一心。一心とは迷いのない事ぞと。一心に願うておりますと言うても、あれに迷いこれに迷うて居る様な事ではです、神様への一心の願いというのは貫かれないと。そういうお詫びとか願いとか、お礼とかというそういう内容をもった所の者がです、日常生活の上に現されて行くという事。そういう生活が私はまず出来るという事、そういう信心から体の丈夫を頂かせて貰い、家庭円満の元を頂かせてもらい。
そういうものが、私共、例えば御造営のことに、又は記念祭のことに願いを集中しての願いにならせてもらう時です、私はおかげ頂くのじゃなかろうかとこう思う。今朝からある方がです、本当に先生もう御造営はどんどん、どんどん進みよる。皆さんはもう本当にどんどんお供えも、神様とのお約束の上に出来ておる、ことが成就しよるじゃろうと思うて、まぁそれを雰囲気から感じられる。
にも関わらず、私共だけはもう思う、一生懸命思うておるにも関わらず出来ません。その勝彦じゃないけども、一生懸命の修行をさせて頂こうと思うとるのだけれども、体の方が言うこと聞かない。一生懸命思うておるのだけれども、にも関わらず、商売の方なら商売の方が、思うように行かないとこういう訳なんです。そこでもういよいよ今日からもう腹を決めましたと。
もうあってんなかってん、これこれのことはと、言うようにもう今月からもうそれを実行に移らせて頂こうと思う。だからその実行に移らせて頂く事も有り難いけれどもです、まず今朝から頂きますように本当に改まらせて頂くということの実行に移らなければいけない。ね。そんなこんなを聞かせて頂きならが、私が思うのです。ね、御造営は見事にもう、言わば、鉄骨の組み立て、棟上が出来たと。
もうこのままでも良かろうごとある。と言うて止めたんではそりゃ見事なだけて、中に住まう事も出来ないようにです、どうも私共信心も出来ませんのに用意も出来ませんのに、準備も出来ておりませんのに、神様はさっさと先に進んでおいでになられるという事。私共はこちら方でまだ足踏み状態であるという事。ね、これではです神様が本当に、ちょっとこの辺でこう一時腰掛けちゃこてと言う様な事にもなりかねない。
神様が前に進んでおられるその、進んでおられるものに、私共が及ばずながら後ろからついて行くだけのです、信心と修行がです、なされていかなければならないと言う事を思う。これは私を始め、神様が先に進んでご、ござるのに関わらず、私共の信心が進んでいないという事にです、ここに非常に一つの空虚なものを感ずる。ね、本気で一つここん所を充たさせて貰えるだけの修行体というかね、本当に全身全魂火の玉の様な、一つの修行体にならせてもろうて、お繰り合わせ頂かなければならんなぁと思う。
今朝丁度この大掃除の半ばでした、11時頃だったでしょうか。近所の方が、赤ちゃんが日晴れだというで親子4人連れでお礼参拝があった。ここに椛目の方達は、日頃は参ってこんでも、そりゃ嫁さんに行くとか、まぁあぁいう大変特に困った時とか、もう必ず赤ちゃんが生まれとって、お宮参りはもう必ずここになさるんです。
まぁそういう風な意味で今日も参って来られたけども、もう一生懸命もう埃がしておる時だったんです。ご結界は向こうの方へ、控えの方へ下げておった。その時に参って見えましたから、私また改めてここを掃除してもろうて、その御祈念させて、御届けさせてもろうた。そしたらね、神様から頂きますことが、『今日は埃に、埃を被りに来てからおかげ』と仰った。子供に。
これはただ、何でもない埃じゃないっち言う事。ね、大祭を迎えるだびにです、きれいになる前に、為の埃である。埃を被りに来て有り難いっち。『この子は衣食住に不自由はなし』と仰った。有り難いです。ですから例えばです、神様からそういうもう衣食住は不自由なしと言われる位にです、星の元に生まれておるからです、ならこの人が幸せかと言うと、そういう人は沢山あるという事。
皆さんだってそうでしょうが。衣食住に不自由しておる、今人はないでしょうが、まぁ大体において。ですからもう、その人は幸せでそんなにも関わらず、腹が立ったり悲しかったり、ね、それは何処にあるかと言うと、結局お互いの我情我欲のためなんです。ね、で私が申しました、どんなに衣食住に不自由せんというてもです、まずここ、その中に住まう所の人間そのものの心というものが、本当の意味での人間改造が出来なければ、この生まれたばっかりの赤ちゃんがです。
神様に頂いた、もう仏様のような神様のような、この姿がこのまま育ちゃいいのだけれども、10年経ち、20年経ちしていく中に、我情我欲の垢がいっぱい付いて、そして衣食住を許されておる氏子でありながらおかげを頂いておる星の元に生まれておるこの人がです、悩みを感じ、ね、悲しみ、苦しみの、言わば世の中にしてしまうのですよと。そこに信心が必要なのだと。
その信心とはです、結局自分の心の中に安らぎを頂かせてもらう。喜びを頂かせてもらう、神恩報謝の生活させて頂くというおかげを頂いて、それに衣食住を不自由のないおかげを頂いて勿体無し、有り難いというおかげを頂いていかなければいけん。そこに信心がどうでも必要だというような事を私はもう、伝えさせて頂いた。衣食住に何の差し障りもないのだから、もうどこに不足もないはずなのだけれども、不足があまりにもある、何故かと言うと、もう必ず我情我欲の元なのである。
自分の思いを一遍ぷそっと捨ててしもうた。自分の我欲を取って捨ててしもうて。そこには有り難い衣食住の、に恵まれたおかげの中にある。しかも、それはもう限りなく、その喜びの上に神様は無尽蔵におかげをお恵みたもう事が出きれるのに、私共が我情我欲いっぱい張っておる為にです、家庭の円満も出来なければ、その難儀の中から脱出する事が出来ないっていうことになっておる。
神様の願い、神様の悲願といや、ね、道の為に働かせてもらうとか、道の建て直しとか、ね、御造営が出来るとか、記念祭が見事に、記念祭を頂かせてもらうと。なるほどそれこ、それも神様の願いではあるけれども、神様の願いの前にもう一つ、私共人間氏子が真実の助かりを持ってです。健康の上にも体の健康の上にも、家庭の上にも、心の状態の上にもおかげを頂かせてもろうて。
粲粲としたおかげを頂かせてもらい、そのおかげが又、神様の前にですね。その思い有り難い思いはその真が真心がです、真を持ってこう現されてそれが御造営の成就という事になり、記念祭が有り難い記念祭として頂き終わることが出来るという事になって本当のおかげ。だからここのところをですね、私共がもう少し目細うですかね、自分達の信心の足元というものを見極めて行かなければならんとじゃなかろうか。
とこう私は思うです。私自身、今申しますように最近とくに、自分の健康の上にそうした様々な症状があるのですけれども、ね、これではやはり神様の願いを本当に成就していく事の、もう根本なものがないわけなんです。ですからまずおかげを頂かせてもろうて、その願いに取り組んで行かなければならんと思います。
もう目の前に御造営が見えとります、もう目の前にご祭典は迫っております。ですからどうしてもご祭典のことにそのご造営のことだけに、こう目が移ります。だからそこんところの目を移す事は有り難いのだけれどもまず自分自身の心の上に、もういっちょ、私は猛反省させてもらって、そしてご造営にまたは記念祭にかからなければならないと思うのでございます。
どうぞ、おかげを頂きますように。